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味噌屋4代目プロフィール

昭和23年(1948年)味噌屋(吉中味噌醤油株式会社)に長男として誕生

昭和23年(1948年)愛知県知多半島の武豊町に味噌屋(吉中味噌醤油株式会社)長男として誕生。小さい頃は祖父母から「お前は大きくなったら味噌屋をやるんだから、しっかり勉強しろ」とか、「味噌屋は地味だけど真面目にやれば食うには困らないから」なんて言われながら育ちました。

しかし、味噌屋を継ぐきは全くありませんでした。

県立高校卒業後、昭和41年、国立岐阜大学農学部農芸化学科入学

どうせ山ばかりの県だからと、山に登ったり野山を歩いたりする体育会系の『ワンダーフォーゲル部』に入りました。お陰でどこでも歩いて行けどこでも寝られるようになりました。けどそこで得た一番の収穫が人前で喋れるようになったこと。小学生の頃から高校生までとにかく大勢の人の前で話すことが大の苦手で嫌いでした。それがワンダーフォーゲル部に入部してスタンツと言う係りになりました。他にも、装備係、食料係、気象係など色々あったのですが、スタンツ係りはいわゆるキャンプファイヤーを演出する役目で、皆で歌う歌の指導やらキャンプファイヤーのMCをする訳です。

百人もの女子大生にアカペラで歌を教えたり、皆で遊べるゲームを考えたり、キャンプファイヤーがどうしたら盛り上がるか、ギャグ、駄洒落、はたまたキザなせりふを考え落語を勉強したり新しい歌を習ったり、今までしたこともないことばかりに挑戦しました。その甲斐あって次第に人前に出ることに抵抗がなくなり、それが快感にもなりました。決してうまいとは思いませんが、気楽に楽しんで話せるようになりました。そんな訳で勉強もせず山にばかり行っていましたから成績はビリ。にもかかわらず一番人気の『応用微生物ゼミ』に入りました(他のゼミ生は成績がトップから5名)。

4年生は応用微生物ゼミで<味噌の酵素>についての研究はしました。とはいえ頃を同じくして始まった学生運動に参加、デモに明け暮れ、東大安田講堂の学生と機動隊の攻防をTVで見ては「いいなあ、あいつらテレビに出てるぜ」と、うらやましがっていたりもしました。大学側との大衆団交で教授に対してここぞとばかり追求するも、「君は僕の授業さぼって一回も出てないじゃないか、よくそんなことが言えるな。」と一蹴。

卒論発表では助手の先生から「土平君の卒論発表は内容はともあれ、堂々とした態度と余裕のある話しぶりだけは立派だったよ」と褒められ?ました。そんなこんなで大学からはお前が留年しても税金の無駄使いと追い出される羽目に。

昭和45年卒業後、父の口利きで東京の味噌問屋に就職するはめに・・・

実を言うと、祖父母からは、お前は大きくなったら味噌屋を継ぐんだ、と言われながら育ったけれど味噌屋が嫌いで、親にも内緒で新聞社を受けていたのですが、見事にすべっていました。行くところもないし東京の空気を吸うのもいいかなとそこに決めた訳です。当時三越本店で実家の味噌が売られていました。就職したけれど大した仕事ももらえず、電話受けや伝票書き、配達助手ばかりさせられ、他の同級生達が、やれ研修だの営業見習いだので、びしびし鍛えられているのを聞いて、悶々としていました。見かねたスーパー担当者が私を呼んで同行するようになりました。

昭和47年、大事故に会いました

スーパーストアの営業担当をしていた時、スーパーに味噌を運んで帰る途中、トラックの助手席に乗っていたんですが、首都高速の新宿インター手前に差し掛かった辺りで、いきなり左車線を走っていたセダンが何のつもりか、右車線に突っ込んできたのです。「あーーーっ」運転手が急ブレーキを踏んだからたまりません。雨でしっかり濡れた高速を空身のトラックがスリップ、左のガードレールに当たり跳ね返されて今度は右の分離帯にぶつかり思わず対向車線に飛び込むんじゃないかと思ったとたん、意識がなくなりました。「しっかりしろ、しっかり」の言葉に気が付くと、救急隊のおじさんでした。ふーっとまた意識を失いました。今度目が覚めると診療台の上でした。腕の骨が折れて、顎がグシャグシャだ、と言われ応急処置。とにかく息は切れるし左の胸が痛かった。

2日後、東京医科歯科大学病院に移って再検査。肋骨が折れてささって左の肺がパンクして気胸を起こしている、と言われました。どうりで息が切れるし、痛い訳です。片方の肺だけで息をしていた訳ですから。息しなけりゃ死んじゃうので、〝ふーっ〟〝ふーっ〟と。息を吐き反動で空気を吸うのです。3日3晩それの繰り返しです。苦しいし、熱はでるし、物は食えない、唇はカサカサ、周りは死ぬんじゃないかと思ったくらい苦しそうだったみたいです。

うまくすれば二ヶ月で針金取れるかも、と言われて2ヶ月後。「やっぱ、未だな、あと1ヶ月我慢だな。」先生に言われ、地下鉄御茶ノ水駅のトイレで泣きました。なんやかんやでの事故でしたが、運が良かったとしか言い様がありません。まかり間違えばもうこの世にはいないでしょう。
何かおまけの人生かなと感じたり、神様が何かするためにわざと生かしてくれたんだ、とも思っていました。

3ヶ月後職場復帰

日本橋三越味噌売り場に正式店長として出向し販売、管理、企画を担当。三越側から、接客のマナー、口の聞き方からお辞儀の仕方、包装の仕方まで徹底的に教育され、それが後々随分役に立ちました。

昭和48年、親の反対を押し切って結婚

入院中一度も欠かさず毎日見舞いに来てくれた女性です。5年の断絶状態が続いた後、父と和解。「もっとよく見て話せば良かった、頭ごなしに反対して悪かった。」と父。以後はすこぶる仲良くなりました。長女が生まれ、よく東京へ来ては家に泊まって孫を可愛がってくれました。

何気なく書いた文が入選

『1973年東京のヤング1973人の発言』と言う名の論文イラスト募集がありました。(東京大丸主催、平凡出版、毎日新聞協賛)
色んなテーマについて意見を文章なりイラストで応募すれば、入選10人パリ10日間の旅ご招待のご褒美付き。何気なく書いた文が入選、翌年選ばれたヤング(私が一番年長)10人とパリに行って来ました。その中の一人が今作家で活躍中の林真理子さんです。

三越のおかげで・・・

10年間販売などで三越に出勤していましたがその後、取締開発室長として三越5店舗、京王および小田急ハルク、東京近鉄、さいか屋京浜2店の味噌売り場を統括するようになりました。味噌の品揃え、仕入れ、価格設定、贈答品の開発、パンフレット作成、味噌販売ケースの設計、そして売上げ管理から人の手配(人員募集および面接)まですべてやってきたつもりです。おかげで味噌販売のノウハウ、自分なりに身につけました。

そして、通販(主にTVショッピング、ラジオショッピング、カタログショッピング)を手掛け、フジTVに入り浸っていました。いわゆるメディア販売の先駆けです。

自然食の大家、榊淑子先生との出会が・・・

「アメリカにはアメリカの気候があり、歴史もある。そこで暮らすためのアメリカ人に合った食事がある訳。反面日本には四季があって、農耕民族独自の腸が長かったりする体や、その気候風土に合った食事の仕方があるんだから、ただ西洋人の真似をすれば良いとは限らないのよ。」
この教えが将来の店造りに大いに役立つこととなりました。

昭和54年、父3代目社長急死!

4代目代表取締役に就任。
突然で辛かったですが、仲直りできたのが最大の慰めです。父の死後、何も分からず不動産屋の言うなりに、土地を売って相続税を納めたのですが、土地を余分に売りすぎて、不動産取得税まで払うはめになり、これは勉強しなくては、と一念発起、独学で『宅建主任』の資格を取りました。

昭和58年、中野坂上に不動産業『SBFリアルエステイト』開業

主に武豊町の不動産売買を仲介

昭和60年味噌問屋退社

自社社名を株式会社ヨシナカ・エス・ビー・エフに変更

同年(1985)9月渋谷東急プラザB-1に味噌専門店『ソイビーンファーム』開店
翌61年11月吉祥寺に2号店『ソイビーンファームイートイン』(現在のソイビーンファーム)オープン

3年後、渋谷店は撤退
いやいや始めた味噌の仕事ですが、やっているうちに面白くなって来ました。40歳までにどちらかに決めるつもりでしたが、やはり祖父母の言うとおり味噌屋の道を選び(三つ子の魂百まで・・・?)昭和62年に不動産業『SBFリアルエステイト』は廃業。

バブルはソイビーンの屋根の上を通り過ぎただけ・・・

自社社名を株式会社ヨシナカ・エス・ビー・エフに変更

同年(1985)9月渋谷東急プラザB-1に味噌専門店『ソイビーンファーム』開店
翌61年11月吉祥寺に2号店『ソイビーンファームイートイン』(現在のソイビーンファーム)オープン

味噌屋の道を選び全力投球・・・
しかし人は来ない、味噌も売れない、どうしよう。その時のバイトとの会話「今日の売上げ9,000円しかありません、どうします?」「しょうがない、ポケットマネーで1,000円出すから、1万円にしておいて。」見ず知らずの土地に見ず知らずの訳の分からない店『ミソスープハウス』?なんじゃこりゃ?だね。すし屋、ラーメン屋、牛丼屋なんかは誰でも分かるけど、『ミソスープ屋』じゃ分からないみたいでした。夜寝られなくて考えました。「夜明け前が一番暗い」がんばれ、絶対分かってくれる。

当時、渋谷に1杯8,000円の味噌汁屋ができて話題になりましたが、バブルはソイビーンの屋根の上を通り過ぎただけでした。何の恩恵も受けずにバブルもはじけて、10年ほどは鳴かず飛ばずの状態。でも、お母さんが来ると今度は娘さんを連れて来てくれたり、逆のケースも。そんな感じでじわじわ売上げ増、TVやラジオ雑誌で紹介される機会が増えるとともに徐々に伸ばし、平成10年3月TV東京『まかせてフルコース』で放送されるや一挙に倍増、どうにか安定、知らない間に、「夜は明けたかな」と感じました。

しかし、あれよあれよで2,000万の赤字

平成13年(2001年)9月新宿三越B-2に『新宿店』オープン。
せっかく一時は軌道に乗ったかに見えましたが、『新宿店』が大ブレーキ。三越に行っている間に吉祥寺店も売上げ大幅ダウン、あれよあれよで2,000万の赤字。

16年(2004年)三越閉店によりあえなく撤収。
商店会長に「もう止めようかな」と言うと、「そんなこと言うなよ、17年も頑張ったじゃないか、またがんばれよ」と会長。また自ら厨房に入り、死に物狂いで頑張りました。東急デパート催事で朝9時から夜中2時まで、とか。ゴルフも旅行も行かずひたすら仕事しごと、2ヶ月半休み無しもありました。かみさん曰く「あんたの人生で一番働いた時」その甲斐あってか借金も徐々に減り、いくらか首も回るようになりました。

なにかと吉祥寺が話題になり、よくTVの取材を受けました。

最近ではホンジャマカ石塚さん、関根まりさん、ハナさん、ユンソナさん、そして何と言っても大好きなキョンキョン(小泉今日子さん)仕事とは言え、色々とお話できた時間はとても楽しく、感激でした。すかさず安住アナが「土平さんって、小泉さんと話してる時ほんと嬉しそうな顔してますよね。」

やはりテレビの影響力は凄い。半年は反響あるみたいです。
22年11月吉祥寺パルコとコラボ、キャンペーンに参加し味噌プレゼントを行ったりしました。若者相手に商売ができる、これからのテーマでもあります。
今年で28周年になります。これからが本番。まだまだ色んなこと仕掛けて行くつもりです。

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